なぜ競馬は「好き」と言えてしまうのか

―― ギャンブルなのに、趣味として成立してしまう理由

パチンコと比較して、
競馬は「好き」と言いやすいと感じています。

そして恐らく、そう感じたことがある人は私だけではないと思います。

同じようにお金を賭けているのに、
競馬は、どこか「嗜み」の顔をしている。

やっている事は結局同じなのに、何故だろう?

ここまでこのブログで整理してきて、私はようやくその答えを掴めました。

それは――
競馬は、そう思ってしまう“顔”を最初から持っている
ということです。


パチンコとは違い、競馬は「趣味」と言いやすい

競馬が「好き」と言えてしまう最大の理由は、
そこに知的遊戯っぽさがあるからです。

  • 数字やデータがある
  • 展開を読む要素がある
  • 血統や調教、騎手といった“考える材料”がある

運任せでハンドルを回している自分より、
考えて選んでいる自分を、人は高く評価したくなる。

競馬は、その欲求を完璧に満たします。

たとえ負けたとしても、

  • 「考え方は悪くなかった」
  • 「展開が噛み合わなかっただけ」
  • 「読みは合っていた」

そうやって、
賢く振る舞っていた自分の感覚だけは、残りやすい。

これは、
単なる自己正当化ではありません。

人間の脳が、
「思考している状態そのもの」を報酬として受け取ってしまう
という性質と、ぴったり噛み合っているだけです。

(とはいえ、スロットなんかはお店の傾向・台のデータを読んだり、技術や分析、知識が必要な部分もしっかりあるのですが。
読みが当たっているかわかるまでの時間・費用が掛かる、もしくはわからないまま が多いので、知的遊戯っぽく見える部分は相対的に少ないと考えます。
狙い台が確保できるか、良い台に座れても、出せるかは運任せですしね)


競馬は、否定されにくい場所に置かれている

もう一つ大きいのが、
競馬は公営であるという点です。

  • 国や自治体が関与している
  • テレビやニュースで普通に扱われる
  • 家族向けイベントや観光要素もある

この環境が、

「危ないことをしている」
「後ろめたいことをしている」

という感覚を、
無意識のうちに薄めてくれます。

つまり、競馬には最初から
否定されにくい空気が用意されているのです。


「馬が好き」という入口が、自然に成立する

さらに競馬には、
他のギャンブルにはない、決定的な特徴があります。

それは、馬という存在です。

馬は、

  • 人類の歴史と深く結びついてきた存在であり
  • 労働・移動・戦争・文化を支えてきたパートナーであり
  • 競技として見ても、美しく、力強い生き物です

「馬が好き」
「馬を見るのが楽しい」

この入口は、とても自然で、
誰からも否定されにくい。

そのため、

ギャンブルをしている感覚よりも、
馬文化に触れている感覚の方が、前に出てきます。
実際に、ギャンブルとしてではなく応援として馬券を買う人も沢山いらっしゃいます。
ハルウララさんは凄かったですよね。

競馬が、
単なる賭け事ではなく、
文化や歴史の一部のように感じられる理由は、ここにあります。


競馬は、「好き」と言いやすいように設計されている

競馬は、

  • 知的に見える
  • 公的に認められている
  • 文化や歴史、ドラマ性・ストーリーを持っている。

だから、
「好き」と言いやすい。

そう感じるように、構造として成立している
なので、入りやすく、完全にはやめにくいのです。


「脳の仕組み」や「正当化しやすい構造」が、競馬のやめにくさ


前回の記事では「脳の仕組みからくる止め難さ」を、
今回の記事では、「正当化しやすい構造からくる止め難さ」をお話してきました。

様々な角度から、人を惹きつける仕組みを持っているのがよくわかりますよね。
うまく出来ています。
そして、この「やめにくさ」について、実際に競馬場に行った経験から、もう少しお話したいことがあります。

次の記事では、
競馬という空間そのもの、
そして人類史的に見た「賭け」の位置づけを整理しながら、

理解した上で、どう関わるか
という話に進んでいきたいと思います。

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